「ありえない」のありえなさ

2005/4/4
「ありえない」っていう言葉、最近良く耳にする。若者から子供中心だとおもうが、男女問わずけっこう使ってるように思う。僕はこの言葉が大嫌いだ。
このことを考える事の発端になった事件は友達と自転車に乗っているとき。正確には自転車に乗ろうとそろって靴を履いているときだった。
僕は自転車乗りだ。と自分でおもう。自分の自転車はすべて自分で整備しているし、泊を伴う自転車旅だってする。それなりにどこにでも行ける自信もある。僕の基本はツーリングで、長距離を高速で走るが自転車を降りて店に入ったり散策したりすることもたびたびある。
なので履く靴は自転車専用ではなく普通の運動靴で、ペダルにクリップをつけて靴を固定できるようにしてある。しかし靴紐がでているとむき出しのギアにひっかかってあぶないので蝶結びした紐を靴に通した紐の間に織り込んでいる。同様に自転車に乗る日はズボンの裾にはバンドが巻きっぱなしだ。多少見た目は悪いが、効率的だとおもって、ずっとこうしてきたし、僕のような乗り方をする人はこういう方法が選択肢の一つとして一般的だと思っていた。
ところが僕の友達はこれを見て、「ありえない」と言った。こういわれたことが僕がこのことを考えるようになった経緯である。

「ありえない」これを日本語で品詞分解してみると、「あり」「え」「ない」に分かれる。
さらに細かく見ていくと、
・「あり」…存在の動詞「有る(在る)」の連用形
・「え」…可能性の動詞「得る」の未然形
・「ない」…否定の助詞「ない」
だとおもう。ちょっと「ない」の品詞が違うかもしれんが…どっちにしろ否定の意味だ。つなげて考えてみると、存在の可能性を否定していることになる。これはすごいことだ。
ちょっと自虐的になるかもしれないが、人間ってのは情報をほとんど視覚に頼っており、目に見えるものをある、見えないものは「ない」として扱ってしまう悪い癖があるとおもう。
自分の目に見えないものの存在はないものとしてしまうため、自分の文化と違う、異文化の理解ができなくなりやすい。それが発展すると喧嘩になり戦争になるのだが、大なり小なりけっこう起こりうることだと思う。

そのように、人間は自分の価値観・文化の外側のことを、無意識に「存在しないないもの」と扱ってしまうことがあり、そこで「ありえない」がでてくるわけである。
前述のような他人の行動に対して「ありえない」というのは最低である。前述の例でいえば僕は僕なりの考えがあり、過去の経験や友人の情報より得た意味ある行動なのだが、それを「ありえない」と「存在」の「可能性」を「否定」されたわけである。
怒るというよりもむしろ言った人の視野の狭さ、自分の文化や価値観に縛られていることに同情をおぼえるほどだったのであるが、やはり言われればは悲しいし怒りも感じる。

なので「ありえない」なんて自分の小ささを露呈するようなことを言っちゃいかんと思う。 ということを持論とし、僕自体は言わないように心がけている。
だがこの話を弟と議論したとき僕の話を聞いて弟は、「たしかにそうだけど現在はその意味は薄れて、驚いたことにたいして「そんな馬鹿な」的な意味に転化しているだけだと思うよ。」だと。
…ハイ確かにそのとおりかもしれません。さすが文系で国語が得意なやつだ。理系のアタマで論理的に数日間考えたことを一言で覆されてこっちが納得してしまった。さすが、負けたよ。
でもあの時言われてめちゃくちゃ悲しかったのは事実だからね… いまでも僕は使わないが。

今自分で使ったが「理系」「文系」を筆頭とした「人間のカテゴライズ・仲間わけ」ということについても考えることがあるので、次回はこのことについて書こうと思う。

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